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2016年10月7日号
〈特別公開版〉
編集長:東浩紀 発行:ゲンロン


『ゲンロンβ』は株式会社ゲンロンが発行する電子批評誌です。2013年に『福島第一原発観光地化計画ブロマガ』として創刊されたメールマガジンを、2016年4月より、『ゲンロン』本誌と連動した本格批評誌『ゲンロンβ』としてリニューアルし、月刊で発行を行っています。
この特別公開版では10月7日発行の第7号から、小松理虔氏による「浜通り通信 #43 10万年の憂鬱」を氏のご好意により全文掲載いたします。
「浜通り通信」は本誌の前身である『福島第一原発観光地化計画メルマガ』時代からの長期にわたる人気連載であり、3.11から5年以上が経過しようとしているいま、福島から、ときに率直に、ときにユーモアを交えつつ明快に綴られる氏の言葉は、マスメディアとは全く異なる視点のありかを伝え続ける、貴重な証言となっています。
「放射性廃棄物10万年管理問題」を取り上げた今号の内容は、とりわけ多くの人々の目に留まるべき記事であるとの判断から、ここに公開させていただきます。(編集部)

 目次 

  1. イ・ブルの政治的身体 東浩紀
  2. 浜通り通信 #43 10万年の憂鬱 小松理虔
  3. 「ポスト」モダニズムのハード・コア――「貧しい平面」のゆくえ #13 黒瀬陽平
  4. ポスト・シネマ・クリティーク #10 山田尚子監督『聲の形』 渡邉大輔
  5. 人文的、あまりに人文的 #6 山本貴光×吉川浩満
  6. 日常の政治と非日常の政治 #6 憲法改正のカギを握る憲法審査会の動向に注目せよ 西田亮介
  7. 「ゼロ年代以降に批評はあったのか」イベントレポート 田村正資
  8. 批評再生塾定点観測記 #3 映画・課外活動 横山宏介
  9. ゲンロン 利賀セミナー 2016「幽霊的身体を表現する」フォトレポート 上田洋子+梅沢和木
  10. メディア掲載情報
  11. ゲンロンカフェイベント紹介
  12. 編集部からのお知らせ
  13. 編集後記
  14. 読者アンケート&プレゼント
  15. 次号予告

 


浜通り通信 #43
10万年の憂鬱
小松理虔
@riken_komatsu


豊洲の新市場のニュースが毎日のように流れている。ネットでも、危険だ、安全だ、責任は誰だと活発な議論が繰り広げられているように見える。そしてその様に、わたしは明確な既視感を感じずにはいられない。原発事故直後からここ数年くらいまで、盛んに話題になったことが繰り返されているからだろう。危険だと騒ぐ人たち。あるいは危険だという人を「非科学的だ」と言う人たち。ああ、これ見たことあるわと、目を半開きにしながらタイムラインを眺める日々だ。

豊洲の問題と福島の問題は地続きだ。何が問題かと言えば、安全か危険かではない。官僚や専門家と一般市民のコミュニケーションの問題だとわたしは考えている。その問題を探るために、今回は、1ヶ月ほど前に報道された、高レベル放射性廃棄物の処分にまつわるニュースを取り上げたい。10万年のあれだ。怒りを通り越し、身体の芯から思わず脱力するようなニュースだった。9月1日に「朝日新聞デジタル」に掲載された記事の冒頭部分をそのまま引用しよう。
 

原子力規制委員会は31日、原発の廃炉で出る放射性廃棄物のうち、原子炉の制御棒など放射能レベルが比較的高い廃棄物(L1)の処分の基本方針を決定した。地震や火山の影響を受けにくい場所で70メートルより深い地中に埋め、電力会社に300〜400年間管理させる。その後は国が引きつぎ、10万年間、掘削を制限する。これで、放射能レベルの高いものから低いものまで放射性廃棄物の処分方針が出そろった。★1


皆さんはこのニュースを見て唖然としただろうか。それとも当たり前だと思うだろうか。わたしは呆気にとられてしまった。ほんとうに酷い話だと思う。酷いだけではない。このようなふざけた方針が打ち出されるところに、原子力行政の問題だけではない、日本の宿痾と言っていいような根深い問題が見え隠れする。

まずもってショッキングなのは、やはり「10万年」という数字だ。原子力発電所を受け入れるということは、もはや地球が存在しているのかすらよく分からない、10万年後の未来まで廃棄物と付き合っていかなければならないということなのだ。今回のニュースは、その事実を改めて突きつけるものであった。当然、原子力発電によって出る放射性廃棄物のなかには、半減期を迎えるのに天文学的な時間を要するものがあるのは知っている。しかし、「10万年」という字面を見てしまうと、廃棄に必要な時間の途方もなさに改めて暗澹としてしまう。

福島の事故で、原発に対して様々なアレルギーを発症している日本で、自ら進んでリスクを取り、廃棄物の最終処分場を受け入れるという自治体は少ないだろう。しかし、20年後はどうだろうか。縮小する日本にあって、財政が破綻しかけた地方自治体が突如として受け入れに名乗りを上げることは大いに考えられる。最後の、そして最大の「アメ」になるかもしれない。「国に対する忠誠の証」にもなるかもしれない。反対に、首長の正義感から受け入れを表明する自治体も、もしかしたらあるのかもしれない。

いずれにしても、国や電力会社、地方自治体に翻弄され、受け入れによって生まれるであろう分断や軋轢に対峙し、罵声を浴びせられるかもしれないのは現地の住民だ。住民との対話に必要なコストや現場担当者の労苦を思うと様々な思いが去来する。処分場の受け入れによって生まれる問題は、個別的に見れば原発事故で生じた問題よりも小さいだろう。ただ、それが「10万年」続くのだ。

だいぶ前になるが、双葉郡の経営者が集まるシンポジウムに参加した時、東電福島復興本社の石崎芳行代表が来られていて、経営者たちと懇談する場に遭遇した。激しい議論が起きているかといえばそうではなく、むしろとても穏やかな空気の中で、「これから地域復興のために何とか力を合わせて行きましょう」というような話がなされていた。そして、経営者と石崎代表が握手を交わすところを目撃した。

その光景を見て、わたしは大きなショックを受けた。あれだけの事故を起こした東電相手に、地元の経営者は厳しい対応をするのだろうと思っていたら、まったく反対の行動だったからだ。甚大な被害を受け、故郷を追われ、コミュニティを引き裂かれてもなお、その原因企業である東電とともに復興を歩まねばならないという現実。良い悪いとかそういう問題ではない。ただ、その現実に触れ、「原子力発電所を誘致するということは、こういうことなのだ」と、いわきで生まれ、原発をほとんど知らずに育ったわたしは、直感的にそう理解してしまったのだ。

当然、東電を責めたところでしょうがない。東電にも前向きに頑張ってもらわなければ、地域の復興もなし得ない。負うべき責任は責任として切り分け、パートナーとしてやっていかなければならないという気持ちもよくわかる。経営者の皆さんだって、わたしには実感しようのない虚しさ、悔しさと戦ってきたことだろう。それでもなお、前向きにやっていこうじゃないかという姿勢には深く頭が下がる。しかし、わたしはまだ、復興本社の代表と握手をすることができないと思う。わたしがダメなのだろう。

最終処分場を誘致した自治体も、何かトラブルが起きれば、いや、起きなくても、おそらく同じような葛藤を抱えることになる。賛成する人、反対する人、政治的な思惑、政争化される地元の声、不安との対峙、コミュニティの分断……。地域の発展への寄与だと言えば寄与だし、シャブ漬けと言われればシャブ漬けだ。そのような、希望とも絶望とも言えない、わたしがこの連載で幾度となく言及してきた「引き裂かれた世界」に、その地域を巻き込むことになるだろう。そして、原子力発電――後始末に10万年もの時間が必要なものを燃料とする発電――に手を出してしまったツケを今、わたしたちが払っているように、廃棄物処理のツケを、わたしたちの子孫に放り投げることにもなる。

目の前の現実として、すでに膨大な量の放射性廃棄物がある。そしてそれは今後増え続ける。爆発的に。葛藤や矛盾やいろいろを背負いながらも、厄介なものを社会のなかでいかに受け入れていくのか。考え、対話していかなければならない。割り切れなさを内包しつつ、難しい議論をしていくしかないのだ。

それなのに。電力会社が300〜400年続くということが前提として語られているところにも唖然とするが、10万年などという数字が安易に出てきてしまうあたりに、規制委員会をはじめとするお役人の方々と、我々一般の市民の認識との間に、大きな隔たりを感じずにいられない。ウソをつけというわけではない。しかし「10万年管理します。責任持ちます」と言われて、どれほどの市民がそれで納得するというのだろう。あまりに当事者性のない発言だし(そりゃそうだろう10万年だもん)、それを受け入れる側のわたしたちをあまりにもバカにしてはいないか。

原子力行政を司る人たちには、コミュニケーションにおける想像力が決定的に欠落しているようだ。わたしは、原発事故のもっとも大きな被害の1つは「コミュニティの分断」だと考えている。その分断を乗り越えるには慎重な対話が求められるはずだ。しかし、当の本人たちにはその気がなく、慎重に行われるべき市民とのコミュニケーションのプロセスをすっ飛ばしているようにわたしには見える。

放射性廃棄物の処分場は「NIMBY」の問題だ。受け入れることで生まれるリスク、あるいはメリットなどを議論していくための「地ならし」を慎重に慎重に進めていかなければならないはずだ。そんなときに「10万年管理します」などという完全思考停止の文言が出てくる。KYどころの話ではない。

もちろん、委員会内で発表された方針だから、受け手のことなど考えずに発せられた言葉であり、それを新聞社が書いたに過ぎないのかもしれない。しかし、であるがゆえに、この問題の根深さが余計に強く感じられる。彼らは心から素直に「10万年保管して国が責任持てばいい」と考えているだろうからだ。「10万年」のニュースは、そのような専門家たちの等身大が晒された出来事でもあった。だからこそショッキングなのであり、だからこそ脱力してしまうのだ。わたしたちの未来や、地域や生活が、このような人たちの手のひらの上にあることを知ってしまった。それが何よりショックだった。

情報の受け手の姿を想像できない官僚、さまざまな不安を「非科学」と言って切り捨ててしまう専門家、反対に一般人の不安で商売しようとする専門家、情報発信に対する「真摯さ」や「姿勢」が問われていることに気づけず「社内規則」を盾にし続ける東電、国にノーと言えない自治体、さらには事大主義のメディア。このような組織の人たちが、原子力発電所を正しく運用し、情報を発信し、事故を防いでいくことはできるのだろうか。もはや、原発や処分場が安全か危険かという問題ではなく、彼らに原発というシロモノを任せることが最大のリスクなのではないだろうか。

10万年という月日は、わたしにはほとんど「永遠」と同じものに思える。そもそも10万年後に日本という国がある保証もなければ、人類が存在している保証もない。前例のない超巨大地震や地殻変動が起きているかもしれない。今後100年ですら、福島と同じようなシビアアクシデントが絶対に起きないと誰が約束できるだろう。それなのに、専門家から、いや専門家であるが故に「10万年」という言葉が出てきてしまう。そこに日本のヤバさが見え隠れするような気がしてならない。

そして冒頭の、豊洲の問題である。巨大組織の思考停止、専門家(を装う人)と一般人の分断といった問題は、報道を見る限り、豊洲の新市場の問題にも端的に表れているようにも思える。いまだに「危険/安全」という問題がワイドショー的に消費されている。官僚機構も行政も問題だが、マスメディアも福島から何も学んでいないようだ。

そして、興味深いことに、豊洲の問題でも「科学的合理主義」を装う分断主義が幅を利かせ始めている。科学的なデータの安全性を理解できない無知な人間は愚かなサヨクであり社会の害悪だ、というような主張が巻き起こり、福島の原発事故の被害者を巻き込みながら、社会的な分断を生み出している。最近でもジャーナリストの佐々木俊尚さんが「反逆クール」という言葉を編み出しツイッターをにぎわせたようだ★2。一部の急進的な左派勢力の行動は確かに目に余るものがあるが、佐々木さんのような理性的な方に、なにがあったのか。

問題はそう単純なものではない。他県とは比べ物にならないほど原発報道が多く、科学的な知見に基づく情報も発信されている福島県内でも、いまだに放射能に対して不安を感じている人は、わたしたちの身近なところに大勢いる。「科学的な知見」なんて、期待通りに共有できない人のほうが多いはずだ。だいたい「科学的なデータを理解できないヤツはバカ」と言ったところで、溜飲は下がっても問題は解決しない。そして、「バカ」と言われた側は、話を聞く耳を持ってはくれない。

先日行われたいわき市議選では、革新系の佐藤和良さんが、立候補者のなかでたった1人だけ5000票以上を獲得してトップ当選を果たした。佐藤さんは福島原発刑事訴訟支援団の団長を務め、左派論客が出席するシンポジウムに頻繁に出席するガチガチの「反原発候補」である。佐々木俊尚さんの言葉を借りるならば、佐藤さんはいわば「反逆クール議員」でもあり、その議員がいわき市でトップ当選を果たしたことになる。その場合、佐藤さんに投票した5000人以上の有権者は、どのような扱いを受けるのだろう。

10万年問題も、豊洲の問題も、そこには専門家や官僚たちの「驕り」があるのではないだろうか。問われているのは、情報発信にせよ、自治体の運営にせよ、合意形成における「真摯さ」の問題でもあるとわたしは思う。しかし、実際にはそれとは真逆のレッテル貼りが横行している。いくら科学的に説明しても愚民には分かるまい、バカなのだから説明したってしょうがない。10万年と言っておけばいい。問題はすぐに風化するし誰も覚えちゃいないよ。なんて気持ちが透けて見え、感じられてしまうのだ。

そして、ジャーナリストが、権力側のコミュニケーション不全や、情報発信の至らなさ、傲慢さを非難せず、まっさきに市民を批判してしまう。これまでは「権力を批判する側と支持する側の対立」だったが、ここにきて、「権力を批判する側とそれを批判する側の対立」になりつつあるのだろうか。「権力」はそうして温存される。そして、そこでは往々にして「科学的であるかどうか」が持ち出され、問題は単純化されていく。そんなことを繰り返していて「10万年」の放射性廃棄物は「社会的に」処理できるのだろうか。

時代は、より殺伐としたものになっていくのだろう。日本人の、何かしらの「受容力」みたいなものが日に日に衰えていっているように感じる。さまざまなものが尖鋭化している。それに抗っていくための知性や態度は、どこで身につければいいのだろう。わたしも、探し続けなければいけない。
 

★1 「制御棒処分、70m以深 国の管理10万年 規制委方針」、朝日新聞デジタル、2016年9月1日。
http://digital.asahi.com/articles/ASJ807DWVJ80ULBJ017.html
★2 https://twitter.com/sasakitoshinao/status/779587032616009729
 

小松理虔(こまつ・りけん)
1979年いわき市小名浜生まれ。ローカルアクティビスト。いわき市小名浜でオルタナティブスペース「UDOK.」を主宰しつつ、いわき海洋調べ隊「うみラボ」では、有志とともに毎月1度の福島第一原発沖海洋調査を開催するなど、フリーランスの立場で地域に根ざしたさまざまな企画や情報発信に携わる。
 

 



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  1. 観(光)客公共論 #12 東浩紀
  2. 「ポスト」モダニズムのハード・コア――「貧しい平面」のゆくえ #14 黒瀬陽平
  3. 浜通り通信 #44 小松理虔
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  5. 人文的、あまりに人文的 #7 山本貴光×吉川浩満
  6. 日常の政治と非日常の政治 #7 西田亮介
  7. 小名浜訪問記(仮) 吉田雅史
  8. SF創作講座レポート〈夏〉 溝口力丸
  9. 批評再生塾定点観測記 #4 横山宏介

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発行日:2016年10月7日
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